28歳でうつ病と診断された私が考える、うつ病発症に至る経緯「高校生編」

 

小学生の頃の話。

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中学生の頃の話。

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1.受験の失敗から始まる高校生編

 

高校生 高校

私は私立と公立の2校を受験し、見事第一志望の公立高校を落ちる結果にになりました。第一志望といっても、先のことを考えて選んだわけでもなく、ただ仲の良い友達がその高校に行くからというだけの理由でしたので、落ちた事へのショックというものはそれほど無く、むしろ私立に行く事へのメリットのほうが大きいものでした。

そのメリットとは「第一志望校より近い」ということです。

基本的に自転車か歩いての通学でしたので、近いという事は何よりもメリットであると感じました。

受験に失敗した事を知った親のリアクションはどんなものであったかは覚えていません。中学生編で書きましたが、親に対しての感情は、ほぼ「無」もしくは「怒り」程度しか持ち合わせることが出来なくなっていましたので、リアクションを覚えていないというより、どんな顔でどんな気持ちであったかなど1ミリも興味が無かったと言う方が正しいでしょう。

ここから「楽しく、つらく、苦しい」高校生活が始まるのです。

 

 

2.うつ病の存在を知った高校生

 

 高校に入ると、携帯電話を持つことになり、自分の部屋でパソコンを使える事になりました。ネットの世界はとても楽しく、ひたすらに電子の海を泳ぎ続けました。

今も昔も、やってる事はそんなに変わりません。気になる事、知らない言葉、知識欲を満たす為に検索検索です。

そんな中、たどり着いた先でひとつの病気のことを知りました。それがうつ病です。うつ病という病気がどんなものであるのかという事が簡素に書いてあるだけのサイトでしたが、そこには「生きているのがつらい」とはっきり書いてあったのを覚えています。

まるで自分にうつ病を知らせてくれたかのように、すっと心の中に入ってきたのです。

そこからは、自分の境遇や気持ちや考え方、なにがつらいのかなど照らし合わせて調べまくりました。そうして獲た結果が「私はうつ病ではないか」という結論にも似た疑問でした。

 

 

3.症状を打ち明ける事が出来ない

 

うつ病

自殺願望があるなどとはとても言えませんが、いわゆる「相談する」という経験がない私には、自分の深いところを誰かに打ち明けるという事が出来ませんでした。

誰か、友達や恋人など心を開放できる相手が居ずに一人で抱え込む事は、精神に大きな負担をかけることなんだなーと思います。

新しい友達も出来ましたし、一匹狼を気取っていたわけでもありませんでしたが、ただ人付き合いが苦手だった私は、そんな事に気づく事も無く一人で悶々としながら耐えるのみでした。

もちろん親に言えば医者には行けたかもしれませんが、自分の事を気にしてほしくないですし、恐らくは親同士の責任の擦り付け合いか「お前が悪い」と言われる事が容易に想像出来てしまうのですから、親に打ち明けるという選択肢は最初からありません。

 

 

4.義理兄が見せた生き方

 

お金
段々と家に顔を出す回数も減ってきていた義理兄でしたが、次第に親に対してお金をせびるようになりました。金額は大体決まって1万円。そして、親は親で兄に会うことを嫌がった為、私はいつのまにかその1万円の運搬係りになっていました。特に兄と喋る事もありません。ただ不機嫌な親から1万を渡され、それを兄に渡すというだけの単純作業です。そこに私の感情などはありません。

不定期に訪れる兄に対し親はうんざりしていましたが、私にはそこで一つの考えが生まれました。「親が苦しむ姿は、本来私も望んでいた事」ということです。兄は兄で本当にお金が必要だったのかもしれませんが、見方を変えれば、お金をせびれば無条件に1万円もらえる金のなる木です。お金がならなくなれば捨てればいいだけなのですから、こんな物利用しないわけがありません。「お金も手に入り、憎き親は苦しむ。」一石二鳥、メリットしかないじゃないですか。

この考え方は、私と言う人格を形成する大きな柱になっているのかもしれません。

 

 

5.自分という寄生虫

 

兄の生き様を見て、私は「自分を寄生虫とするならば余計な事は考えなくて良い。親から養分を吸えなくなれば捨ててやればいい」と考えるようにしました。そう考えると幾分楽に息が吸えたような気がします。

ですが、その半面「親や子という考え方をするから面倒なのであって、あくまでも自分が成長するための養分を運んでくるためだけに存在するなにか別の生き物である」という考え方は、親がいなければ今生き延びるのは難しいと思う材料にもなってしまい、結局は自分を否定する要因の一部に過ぎないことに、後から気づかされました。親の呪縛から解放されないことは、私にとっては何よりも苦痛でしかないのです。

 

 

6.進路への絶望と希望

 

高校を卒業すれば、進学か就職かという人生にとって大きな決断を迫られます。実家を離れ遠いところで就職するのが一番の選択肢だとは思いますが、高校3年間のうちに一つ夢を持つことが出来ました。その夢というのは、服飾の仕事に就くことです。オシャレが好きというわけではなく、派手で奇抜な服やアクセサリーを見ると心奪われるものがあり、そんなものを自分の手で生み出したいという思いがあり、そういった専門学校に進学しようと決めました。そして親元は確実に離れたいので、なるべく遠いところで。

親は元々進学派の意見の持ち主でしたので、意を決して相談しました。「将来こういう仕事に尽きたいから、東京にあるこの学校に行きたい」と、初めて親に自分の考えを申し上げたような感覚に陥りましたが、そんなことはどうでもいいのです。返ってきた言葉は

「お前なんかにそんな物出来るわけないだろ。バカも休み休み言え」

「東京なんかでお前みたいなやつが暮らしていけるわけないだろ」

「離れても隣の県ぐらいしか認めない」

皮肉に残虐性を上塗りしたような台詞に、私は返す言葉を探す事が出来ませんでした。

「どうせお前が・・・」「お前なんかが・・・」

あとどれだけこの言葉を浴びればいいのでしょうか。

幼いころから仮面をかぶり、息子という存在を演じ続けた私の事を、この親と呼ばれる生き物はどれだけ理解することが出来るというのでしょうか。

結局は親が納得しないと進学できない事実がありますから、食い下がる精神状態でもないですし、そんな勇気も体力も残っていません。

親が納得する材料は「隣県」「国家資格」「将来的に安定した職」の3つです。

結局親元を離れるにはこの条件を飲むしかなく、バカな私でも狙える国家資格を約束された確実な職というものを探しなおしました。

見つけたのは自動車整備士の専門学校です。その学校は受験票を出して金さえ払えば誰でも入れて、かつ国家資格はほぼ100パーセント合格、就職率も悪くないという納得させるには十分すぎる内容でした。車には興味が無いわけでもなかったですし、同じクラスの仲のいいやつが同じ学校を受ける事がわかり、それも補足情報として説明したところ簡単に認められました。

後から知る事になるのですが、親は私のことを手と目の届く範囲、つまりすぐ行ける範囲で置いておきたい。かつ、自分が理解できる職種以外は全却下なのだそうです。夢は持つだけ損でした。

ですが、なんにせよとりあえず親元を離れる事は確定したわけです。進学先はあまり喜べるものでもないですが、寄生虫としての役割は十分に果たせていると思いました。なにせ、家賃も光熱費も親が払う、月5万の仕送りもあり、奨学金は借りないから学費全部親が払うという、至れり尽くせりの甘やかしスタイル。専門学校ですからその学費たるや莫大なものです。寄生虫寄生虫なりに役割をこなしてきた甲斐がありました。

 

 

7.続く

 

道 続く

高校編はいかがでしたでしょうか。思い返せば、よくあんなところで生活していたなと言うのが思うところですが、ここからさらに私の人生は大きく展開していくのです。

まさに波乱万丈、絶望人生。

小説にでもしようかな。

 

 

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