28歳でうつ病と診断された私が考える、うつ病発症に至る経緯「中学生編」

 

以前に、28歳でうつ病と診断された私が考える、うつ病発症に至る経緯「小学生編」という物を書きました。

nosuke1989.hatenablog.jp

 

今回はこの続きである「中学生編」です。

中学生ともなると、思春期や反抗期の真っ只中であり

また、一個人としてのはっきりした感情や考えを持ち始めます。

 

1.不安を持ち始めた中学生時代

 

不安

 

「小学生編」でも書きましたが、私には義理の兄が居ますが歳が離れているため、私が物心ついたときには既に家から出ていました。たまに帰省してくるのですが、それは私が中学生になっても変わらずで、私はほぼ一人っ子状態で育ちました。兄と母親は会うたびに喧嘩が絶えず、父親にいたっては全く関わるそぶりも見せませんでしたので、友達にも私には兄が居るという事は伏せていました。多分私の内心はもっと兄の味方をしてあげたかったんだと思います。ですが、怒りの矛先がこちらに向けられるのを恐れていましたし、何より何もしない事がこの家庭における私の対場として最善だと考えていたからです。

 

1-1.良い子である事を演じ続けた

 

良い子

 

やはりこれは小学生の時から変わりません。表現として良い子という呼び方が合っているかどうかは定かではありませんが、出来るだけどこにでもいる普通の息子として存在し続ける事を考えていました。気分が優れない憂鬱な日もありました。まるで自分のしている事がまるで無駄な事に思えて「今すぐにでも消えてしまいたい」そんな風に思っていた事もあります。ですが、そんな態度は家庭の中で見せるわけにはいきません。それは、両親がこの感情を理解できるはずがないとわかっていましたし、もし私がなにか他所の子とは違う特殊な病気を患っていると思われれば確実になにかトラブルの種になりえるからです。ですから、すべては私の心の奥深くにしまいこみました。学校や友達と遊んでいればその内忘れてしまうと思っていましたし、実際家に居るよりかは楽でした。

 

1-2.父親への無関心と、母親への反抗

 

反抗 破壊

 

父親は「自分は誰よりも正しく、異論はすべて認めない」「逆らうものは許さない」という家庭内における絶対権力者であり、非常に短気な人でした。こういう人とは自ら関わると損をするというのが世間のセオリーだと思いますが、私も自分から話すような事はありませんでした。父親からも特にアクションがある訳ではなかったので、なにか特別な用件があったり家の手伝いなどで話しかけられたりする時意外は大人しくしていました。不思議なものでそうしていると別に話さなくても良い人間だと脳が勝手に認識するようになり、相槌さえうっていれば何も困る事がなく、父親に関しては全くといっていいほど無感情になった時期があります。

母親は過干渉と放棄を繰り返す人で、機嫌がいいのか何なのかわかりませんが、そういった時期が来ると過干渉モードに入り、私の行動を全て把握しようとしました。何をするにも口を出し、そして自分の意見が通らないと機嫌が悪くなり「じゃあお前一人で勝手にしろ」と全てを放棄する、まるで子供のような人間でした。中でも私が一番嫌悪感を抱いたのが「私はこの世で一番不幸な人間だ」というような素振りを見せる事です。家庭内や職場での人間関係にトラブルが生じると、一切自分になにか非があったのか等とは考えずに、人の悪口ばかりを私に愚痴としてマシンガンのように浴びせてくるのです。家庭や親への疑問を持ち始めてから、幾度となく辛い気持ちの日があった私の前で、子供が何を考えどんな感情を抱いているのかなど微塵も理解しようとはせず「世界一不幸な女面」をするのが何よりも許せませんでした。

 

 

1-3.将来への不安

 

不安 怒り

 

前述したとおり一人っ子として育っているので、将来的には親の面倒は私が見なければならないのだろうと、漠然とした未来を思うとどうにも憂鬱で不安になりました。

縁を切る等ということはまだ頭の中にはなく、避けられない結末がそこにはあって「私はこの感情を押し殺したまま歳をとり死んで行くのだな」と自分の将来を悲観していました。学校の宿題で将来なりたいものや夢や希望を作文にして発表する場があったのですが、物書きは当時から好きでしたので突拍子もないことを書いて先生に褒められたような記憶があります。それがその当時私に出来る唯一の抵抗だったのかもしれません。

 

 

2.この人たちは親でも家族でもないと悟った

 

悲惨

 

親は親であって、どれだけ時間が過ぎようともその事実は変わらない事は理解できていました。理解は出来ていても受け入れがたいものがあり、それが事実として突きつけられるたびに私は憂鬱になったものですが、あれは夏休みに友達数人と市営のプールに遊びに出かけた日の事でした。お昼を食べてからの集合で自転車で意気揚々と自転車で出かけました。みんな集まりプールに向かって走り出してからしばらくした頃、途中車一台と人がやっとすれ違いできるような細い道があるのですが、その道中で私は車と接触事故を起こしてしまいました。状況はこうです。

  • 道中私たちは一列で左側を走っていました
  • そうすると細い道の中で向かい側から車がゆっくりと走ってきました
  • 私たちは出来るだけ左側により途中足を着きながら車とすれ違おうとしました
  • もちろん車側が多少私たちを避けて運転するはずだろうと思っていました
  • ですがその予想は大きく外れ、車側は停まるか停まらないかぐらいのスピードで私たちの横ギリギリを通り抜けようとしてきました
  • 私の左手側には民家の塀があり、車をよけきる事が出来ずに間に挟まれ自転車のかごとペダルが車の運転席側を擦ってしまいました
  • そうすると運転していた若い男が怒鳴り散らして向かってきたのです

これが事故状況の説明ですが、私は車にぶつかった事で気が動転していたということもありますが、私は停まって避けていたのに車は避けずにぶつかってきたのだという絶対的な自信もありましたので、怒鳴り散らしてきた若い男と言い争いになってしまったのです。「学校と親に連絡してやるから後で覚えとけよ」と、なかば脅しの様な威圧感でこられましたが、やはりこちらに非があるとは考えられなかったので「お好きにどうぞ」という事でその場を後にしました。当時学年主任だった先生の家を知っている友人が居て、一応相談に行こうという流れになったのでプールの前に先生宅へお邪魔しました。先生は真剣に話を聞いてくださり、とにかく怪我がなくてよかったと心配してくださいました。私はその言葉に安堵し、ひとしきりプールで遊んでから家に帰りました。そこには激昂した父と警察の姿がありました。現場検証をするからということで、すぐに車に自転車と共に乗せられらあの細い道までやってきました。車の中ではもちろん会話はありません。私たちの後すぐにあの若い男が現れ検証が始まったので、私は上に書いたような事をはっきり説明したのですが、どうやら車の男の主張の方が理にかなっていたようです。警察の話では「ブレーキ痕もないし、車側が避けないとは考えにくい。男の言い分では家の前で停車していたところに自転車が突っ込んできたという事だが、車の傷の跡を見てもそういった判断が出来る」との事でした。「あんな細い道の真ん中で停車?あんなスピードで走っていたらブレーキ痕なんてつくはず無い」と瞬時に言い返そうかと思いましたがやめました。何故なら、私の目にはあの憎い車の男と談笑する父親の姿が見えたからです。ー、この人は先生とは違い子供を心配するという事はないんだな」と思った瞬間涙があふれそうになりました。ひとしきり警察との話が終わった後、父親から「どうせお前が悪いんだから早く謝れ」といわれ、私は素直に引きつった顔で2度謝りました。そうです、どうせ私が悪いんです。この親にとって私はそのような子供に見えていたという事です。私の自転車のひしゃげた前かごは直して貰えるみたいな話をされましたが、食い気味に「大丈夫です、元々壊れていたものですから」と断りました。これ以上この場にいたくない気持ちの方が強く、最後にもう一度謝り家に帰りました。「何で早く連絡しないんだ、遊んでる場合じゃないだろ。忙しいんだから迷惑をかけるんじゃない」と説教をうける私の心はもう既にそこにはありませんでした。この家に私の味方は一人も居ないのだと理解できた時、もうこの人たちは親ではなくなりました。

 

 

3.悲しみの中学生時代

 

孤独 悲しい

 

あんなに親という存在に気を使って生活してきた私の心は、一瞬にして崩壊してしまいました。なんて自分は愚かだったのだろう、なんて自分は無駄な時間をすごしてきたのだろうと。これからもっと苦悩することになるとはまだ知らない中学生編でした。

 

「小学生編」から呼んでいただくと、よりわかりやすいかと思います。

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子供でもうつ病は発症します

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